昭和41年06月27日 朝の御理解



 神に一心とは迷いのないことぞと、一心を立てれば和賀心に神がござるからおかげになるのぞ、という一心と言う、一つの心、一心を立てる、または、一心とは心に迷いのないことぞと。お互い一つ一心を出して迷いのない信心をさせてもろうて、天地に、天地の真に通じるおかげを頂かなければならない。
 天地の真に通う天地の芯に通じる。昨夜夜の御祈念に奉仕してもらってからご神前で私の修行中の一番色んな意味で苦しかったと、いう時代のことを頂く。それがあれはなんていうですかね、はりの頭に待ち針というですか、上に丸いとがついておるですねあの待ち針のような感じでですねその針の足が長いのです。その丸いところが私の一番修行の激しかったというか、きつかったと言う時代の時の私のそれぞれの表情なのです。いうなら、あの針の頭がです、私の頭なのです。
 それでもう、本当に歯お食いしばったような、一生懸命の修行に、耐えさせていただいておると、いったような、自分の表情なのです。その私の感じがです、その御心眼を頂いてから感じがです、こういうときに天地の芯に貫き、芯に通じておったときだというようなかんじなんです。そこで皆さんが、やっぱ苦しい時がありゃ、一生懸命神様におすがりを致します。それは歯を食いしばって、辛抱の時もあります。苦しければ苦しいほど神様におすがりを致しますから。
 だから、その時にお互いが、天地の芯に通じておったかというたと、そうとばかりとは限らないと言う事。どういうふうに違うと思いますか、誰でも苦しい時には一生懸命もう、眠いもなからなければ、熱いもない、寒いも感じんくらいにまあ、一生懸命。そういう時にまあ、天地の芯に通うというならば天地の芯に通じるというのはそういうときだろうけれども、なら、いちおう誰でも、金光様の信心を十年も続けておれば、そういうことがあるのです。もうそれこそ一生懸命、ね。
 けれどもです、迷いがあったのでは、神に一心は通じないということなのです。ここんところにです、そこんところが私は思うですね。ただその、一生懸命の修行をしておるときが神に、の芯に通じというのではない。そのように迷いのないものがなからなければならないということなのです。ね。いかにも私には迷いがないともうしましてもです、神様一本ですともうしましてもです、迷いがありませんというてもです、それこそ、苦しいときにです生神金光大神様と唱えたと。
 その一生懸命な生神金光大神様とです、迷いのないとが一つとなって始めて天地の真にかようもの、通じるのだということ感じます。ですから神様の教えて下さる御教え、神誡神訓または御理解、その教えて下さるその事にです迷いをもってきいたのではもう、例えば一生懸命であってもです、天地の芯に通じると言うこととはどういうことになるかね、それこそあの天地を動かすと言うことは、天地が私達のために動いてくださるといったようなです、いわば天地が発動ましますようなです天地が発動する、ね、
 いわゆる、モーター発動機ね、その発動機がです、発動するときにどういう働きが出来るか、ね。一人でたとえばお米をつかせていただくと言う事は例えば一表なら一表のお米をつくのに、どれだけの時間がかかるか、一生懸命努力をしてからこれだけの時間にこれだけしか出来ん。ところが精米所のいわば発動によるとどういうことになるか、もう一表というのはあっというまでしょうが。
 天地の御発動を頂くとそれ以上のことが出来るのです。いわゆる人間の知恵とか力とは超越した力。私は思うに、椛目がこうやっておかげを頂くようになって十五年間、現在のおかげを頂いておるという事がです、ね、これはやはり天地が発動をましましておると私は思うのです。天地が発動しておられる。だからこそ、現在の椛目のわずか十五年間の間でこういうようなことになってきておるのだと私は思うのです。
 天地の御発動を頂く為の私共の心が一心がです、天地の芯に通じる、天地の芯に通うというほどの信心をさせてもらわなければなりません。苦しい時に一生懸命になる。ね。それと同時にその一心に神様におすがりをする修行をするという中身がです、迷いがあってはならないと言うこと。こげんしてから一生懸命参りよるけれども、こげな修行しておるけれども、おかげを頂くじゃろうかと、誰々さんが、なんちいいよりなさるけんあちらのほうにいっちょ参ってみろうかと。
 さあ、薬だ医者だというてあの人にというて、頼ったり、迷ったりするような事で、天地の芯を、動かすようなことは出来ません。芯に通づるような事はありません。おかげを頂いても、ね、天地の真に、通じると言うことはありません。ね。神に一心とは、迷いのないことぞと、一心とはね、ただいま申しますように、本当にこのことだけはと、神様に一心に貫く事。ね。
 私その神様の前で、昨夜、針の頭が私のいわば、苦悩時代です、一生懸命の苦しい時代のあの時の表情がこうだろうと思う、それこそ歯を食いしばったような様々な表情を浮かべてから、霊神様の前にでてから御祈念させて頂いて、初めて御祈念をさせてもろうてから、祖先賛詞が奏上される半ばごろからです、急にお腹が痛み出したのです。もうとにかく祖先賛詞をあげようともあがらんです。苦しくて。
 ははぁさっき神様の前で頂いたのはこの事だったばいなと私は思うたのです。もう、腹が痛い時の表情と言うのはやっぱそんなもんですよね。歯を食いしばって辛抱をしておる。それでもその、半ばですから、一生懸命ようやく、のことで御霊様の生あせがすたすたと流れました。それで、(録音不良)とかずに若先生が後を奉仕してくれました、そのまま休ませて頂いてまあ三十分あまり、まあ大袈裟のようですけれども、もう七転八倒の苦しみでした。
 そういう中にです、私の心のなかに思うことです、先ほど頂いた過分に天地の芯に通じる、こういう苦しい時にです。生神金光大神様を唱えると言うことを、しかも、それはどうしてからというのではなくて、神様のご都合に違いないという迷いのない心で一心に縋るということ。それとこれは少し違うかもしれないですけれども、私はその神様の前で頂いた、私の苦しい、苦悩の表情と、それとがやっぱりなんか一つのの関連性をもっておるように感じたのです。
 昨日一昨日でしたか、上野さんがここで修行を致しております。まあ、本気で修行をさせて頂いておりますから、神様もその修行を本気で受けて下さっておるという事を感じるのです。皆さんがご承知のように椛目はもう早うて遅い。ですからもう当然、生身をもっておったら眠いのは当然ですけれども、一心を立てておるときにはそれがないです。その、夕べの何時だったですか、今朝も何時間しかやすんどらん、思うただけでも眠くなるけれども、その、眠くはなかったというわけなんですね。
 けれども、やっぱ眠っておらんからと思ってから、ふっとこう、眠ろうと思うてタンスかなんかに寄りかかってからこうしておったと。そしたらもう、ほんとに、ふわっとしたかしないかの途端に、御心眼とも御神夢ともつかんお知らせを頂いたのがです、二人の人があの、空中サーカスですかね、空中ブランコをこう、やっておるところを頂く。はっと思うて目が覚めたと。本当に一生懸命の信心一生懸命の修行というものをです、例えば、只今修行中という時にはです、油断をしてはならんと言うこと。
 油断をして自分一人が、失敗するならよかばってん、相手にまで失敗をする。ね。二人のものが両方から跳び、こう移る、タイミングというものがあるでしょう。それをこうやって二人でブランコこうやっておるとき、片一方眠ってごらんなさい片一方がまっさかさまに落ちるだけではなくて片一方の方まで落ちるような事になるぞというふうに厳しい。私は一生懸命というのはそういうものだと思うです。ね。
 昨日一昨日が北野の共励会でしたかね、それであの、文男先生がちょうど現場の、当番で来ておりましたから、あんたも、このままでおってから北野におかげを頂いて行きなさいと申しましたから、ならおかげを頂いてまいりましょうというてまあおかげを頂いた。あちらで人数は少なかったけれども、本当に膝を突き合わせての、かえってしんみりした共励が出来たというて、帰ってきておりましたが。
 その時の事を秋山さんでしたか、お参りきて見えてから話しされておられました。いつでしたか、十何年前のこと、椛目の毎月御本部参りをしておった時代です、御本部の帰りに汽車の中で私が、知らぬ間に眠ってなにかあのとっさてきに何かあったときです、もうあの、とにかく私がお国替えをしておる状態です。それで私が寝ておったけれども、そこを、誰か横に寝ておったのをそこを飛び越えてから。
 ちょいて、向こうの方へ文男さんが、まだ、信心話でもしよる何人かで、そこんところへ飛び降りていってですね、とにかく、文男さんが誰か知らんけれども、しがみついてからもうとにかく覚えんのですよねあの時に先生が、生神金光大神様というてあの、唱えられた時があったと。もう私はいよいよの時はあの時の事が思い出される。あの時の生神金光大神様はいつも耳に残っておると、というような話をしておる。
 ああいうような境地を目指して、私は信心を続けておると、言ったような話をしておるという事を、聞きましたんですけれども、私は覚えませんでしたけれども、確かに、確かに覚えんけれども、かすかにそれをいうた感じがある。いよいよ難しいと言う時に、生神金光大神様と、その唱えておる。私はこういうようなことがです、日頃このかた一心と私が縋るのは、生神金光大神様意外にないという、一心がなければ、いよいよの時に出てこないと私は思うのです。
 ですからそういう言わば境地をめざして、文男さんがいうようにです、信心を進めさせていただいておるという事。どんな場合でもそれには只今上野さんが只今修行中であります修行に対するところの一心と言うものを貫く為にはですね、眠いから寝る、食べたいから食べると言う様なことでは、神様に一心は貫かれん。しかもそういう一心ではいかにもある様にあってもでもです、神様の教えを右左にするようではです。
 先生はああ仰るけれどもというてその疑うてかかるようでは、神に一心は届かん。天地の芯に通じない。迷いのないそれをそうと、確信させてもらえる、迷いのない信心と只今修行中といったような時に一生懸命の修行をさせてもらう、そのこととこのことが一つになるような時、天地の芯に通じるというのはそういうときではなかろうかと。真心一心と。真心一心とは、神に通う唯一の手立てだと思うのですけれども。
 神に一心と言うことは、心に迷いのないことというものが、条件であると言うこととてもあげな、修行の真似は、出来んというてもです、いかにその、修行が出来ておっても、例えば、迷いがあったのでは、天地を動かすような、おかげにはなってこない。やはり、上野さんがその時に、頂いておることに次に、最近スワリダコがとても痛い。座っておれないくらいにいたい。それで、横すわりなっとんにゃ、又足投げ出しなっとんせにゃ、たまらんご足る時がある。
 そしたら神様からすぐ御心眼を頂いてから、皆さんの周囲にたくさんの人が座ってから、その真中に自分が正座をしておる所を頂いた。たくさんの注目の中に自分があるのだと、いくら痛かっても辛抱しておらなければおられん。そのくらいのものがなからなければだめだということでしょう。だれも、おらんならです横すわりもよか、横に投げ出す事もよいけれども、ね、自分の周囲にはいっぱい、ちょっと襟を正した人達が座ってござる。その中に自分があるというような気持で辛抱せにゃ。
 神様、考えてみれば無理なことを言いなさるごとあるけれどもです、ね、そこんところを、無理な事ある事をです貫かせて頂ける私は迫力がなからなければ、天地の芯に通うような事はないと私は思う。ね。いつもかつもそうせろと仰るのではないけれども、ね、天地の芯に通いたい、本当に神様の心がわかりたい、神様の心に自分の心を通わせたい、そういう願いの元に修行をさせて頂いておるのならばです、その位な修行くらいは、貫かなければ、天地の芯に貫くはずがない。ね。
 場合には神様はそういうふうにでう、酷なまでに私どもの上に現れてくださる。ですからそういう時には私どもそれをやってやってやりぬかせていただくところのです、ね、徹底した心の修行精神がなからなければいかん。同時にです、そういう時にです迷いのない迷いのおこらんですむだけのです、信心を日頃稽古しておかなければならないのです。ということを感じます。
 神に一心とは迷いのないことぞ、一心を立てればわが心に神がござるからおかげになるのぞと、ね、一心を立てれば和賀心に神がござるからおかげになる。ということと、神に一心とは迷いのないこと、という事を今日は申しましたつもりですけれども、どうぞ皆さんの一心がどの程度の一心であろうかと、皆さんの一心が貫かれておるだろうかと。修行という事にはもう絶対貫くという、3代金光様が仰られてあります。
 「神信心には辛抱する事が一番大切でございます」とおっしゃる、その一番大切なものをです、私どもがおろそかにしておるようなことはないだろうか。同時に、一心であるけれども私の心にはまだ迷いがある。いざという時にはすぐに迷うておる。こげなことじゃまだ、天地の芯に通じるような、おかげを頂かれんと悟らせて頂いて、迷いの起こらないですむ修行を続けていかなければならないと思いますね。
   どうぞ。